さいはての花園

呼吸

 右手を苛む痛みを無視しながらひたすらに車椅子を押して、月が昇るころになってようやくたどりついた廃墟は病院のようだった。シキを寝かせるベッドが期待できることに安堵しながら、アキラはガラスのドアが開いたままになった正面玄関をくぐった。

「今日は大変だったな」

 比較的きれいで外からも目立たないところにある部屋を適当に見繕い、アキラはひとまずベッドに腰を下ろした。

 あれほどまでに手こずった相手は久しぶりだった。知らないうちに自分の腕もなまってしまっていたのかもしれない。斬られた右手を手当てしようと、アキラは近くにあった部屋からまだ使えそうな道具を持ってきた。かなり劣化しているものもあるが、装備の足しにはなるだろう。

「アンタも疲れただろ。明日はゆっくり休もう」

 手当てを終え、車椅子に座らせたままだったシキの体を抱きかかえる。初めは日に日に軽くなっていった体重も、最近はある程度のところで落ち着いているようだった。とはいえ、腕に感じる重みはかつての彼の姿からは想像もできないほど軽い。

 慎重にその体を寝台に横たえて、気休め程度のかび臭い掛布団をかけた。横になったら力が抜けたのだろうか。先ほどまで開いていた瞼が閉じかけている。

「おやすみ。シキ」

 まだ完全には閉じていない瞼に手袋を外した手をそっと乗せて、ゆっくりと閉ざした。その瞬間、アキラとシキを繋ぐ何かが途切れたような、なんとも言えない寂寞感がアキラを包む。シキの瞳から鋭い光が消え挑発的な言葉を紡いでいた口が閉ざされたいま、アキラとシキが共有しているものと言えば、その目にうつしている景色だけのような気がしていた。

 互いの時間は、時として酷く遠かった。二人が「いま、ここにいる」という実感が訪れるのは、同じものを見ているときだけだった。彼がそれを認識しようとしていなかろうと、鮮やかな赤い瞳にうつされている景色を想うとき、アキラの心は確かに救われていた。

 だから、夜闇が彼を包むこと、それが一番怖かった。いつの間にか、怖くなっていた。

「……シキ」

 起こさぬように、吐息だけでその名を呼ぶ。

 眠りに包まれて安らいだ顔をじっと見つめていた、その時だった。

「……」

 呼吸の音が、きこえた。

 彼の鼻孔から流れ込み流れ出る空気を、感じた。

 アキラはその場でかがむと、シキの息をすくいあげるように呼吸した。

「……」

 そのままそっと、唇を触れ合わせる。

 すこしだけあいた隙間に、自らの吐息を吹き込んで、また吸い込んだ。

 

 息をしている。生きている。ふたりとも。

 

 アキラは合わせた唇を離して、また独りの時間に戻っていった。