さいはての花園

 昨夜遅く、闇に溶け込むようにして帰ってきた彼はどことなく気だるげな雰囲気を漂わせていて、それがアキラの胸を妙にざわつかせた。

「おかえり」

「……ああ」

 わずかな間に、違和感を覚える。

「……」

 何となく動けずに玄関の目の前で突っ立っていると、シキがおもむろにこちらにその赤い瞳を向けた。

「………」

 研ぎ澄まされていながらも艶を秘めた、燃えるような赤い瞳はしかし、どことなくいつもとは違っていて。気づけば、その細い指がアキラの顎を捉えていた。自然に訪れる、柔らかな口づけ。いつもはすぐに激しさを増すその行為も、いまはただ、柔らかくて。

「……っ……ふ」

 ただ愛おしむように絡んでくるそれに、ごく自然に応じてしまう。ゆっくりと壁に押し付けられて、彼の腕の中に閉じ込められる。シキのにおいが、肺いっぱいに満たされる。

 全身が震えるような悦びが、そこにはあった。頭の中が霞んでいく。――飲み込まれる。

 そう思った瞬間、シキの唇が離れていく。銀糸がしばし二人をつないでいたが、それも消える。

「……?」

 伺うように見上げれば、彼はその美しい面に不敵な笑みを刻んだ。

「なんだ。そんなに主が欲しいのか?」

 からかわれるように言われた途端、かっと頬が熱くなる。

「そ、そんなんじゃ、ない」

「飢えた目をしているぞ」

「……うるさい、どけよ」

 乱暴にシキの胸を押すと、彼は思いのほかあっさりと身を引いた。

(なんなんだよ、もう)

 心の中で悪態をつきながら、逃げるようにリビングへと向かう。しかしそこで、今までずっと抱いていた疑問が口をついて出た。

「ていうか……なんでシキは……スなんてするようになったんだよ」

「何と言った。聞こえないぞ」

「……だから!」

 ばっと勢い良く振り向くと、顔が熱くなるのがわかった。

「なんで急にキスするようになったのかって聞いたんだよ!」

「……?」

 シキは問われたことがよくわかっていない様子で眉を寄せた。

「だから、その……トシマにいた頃とか、『眠る』前とかはほとんどしてなかったのに……」

 口ごもるアキラを見ていたシキは、少し考えたあと急に唇の端を吊り上げた。

「フ……」

 アキラの顎をつかんで持ち上げ、楽しそうに言い放つ。

「こうすると聞き分けがよくなるからな……好きなんだろう?」

「な……」

 絶句したアキラが瞼を下ろす暇もないほど素早く唇を塞がれ、至近距離で視線が交わった。

「……!!」

 赤い瞳に、射すくめられる。びくりと体を震わせた拍子に緩んだ唇の隙間から、シキの生温かい舌が忍び込んでくる。――目が、離せない。

 アキラの口内を一通り蹂躙すると、シキは静かに唇を離した。惚けたアキラの顔を見て満足そうに微笑むと、シキはアキラの横を通り抜けてリビングへ続く扉を開けて入っていった。

「な、……」

 なんだその理由は!

 アキラは思わず心の中で叫んだのだった。

 *

 いつもと違うシキの様子は、そのあとも続いた。

 夕飯を食べたあと、珍しくシキが早々にシャワーを浴びると言って出て行ったのだ。いつもは夜遅く、寝る直前に浴びているのだが。まあそんな気分になる日もあるだろうと、アキラは自分を納得させた。ところが。

「先に休むぞ」

「あ、ああ」

 何とシキはシャワーを浴びてすぐに寝室に引っ込んでしまった。これはいくらなんでもおかしい気がする。普段なら、リビングでアキラをからかいながら気分が乗ったらそのまま押し倒し夜中まで無茶をしてくるか、アキラがベッドで寝ているところに襲撃をかけてきてやはり無茶をしてくる。あの人並みはずれた性欲がどこから来るのかなんて考えたくもないが、ともかくこんなことは初めてだった。

(シキ……調子悪いのか?)

 若干心配しながらリビングでソファでしばらく新聞を眺めていたものの、他に一人で何かすることがあるわけでもなく、早々にシャワーを浴びて寝ることにした。

 いつもと違う状況というのは、気持ちが悪い。放っておいたら表層化しそうな余計な感情を無意識にそうすり替えながら、アキラは風呂場に向かった。

 *

 しばらくこの部屋に住むと決めた時のことだ。アキラは最後までしぶとく反対していたのだが、シキは彼の言うことには耳を貸さずにキングサイズのベッドを買ってきた。もちろん、彼の数々の変態プレイの主な実行場所として。その結果、アキラはあんなことやこんなことがある日もない日も、めげることなくシキと床を同じくしているのだった。もちろんソファではなくちゃんとベッドで眠りたいというのもあるが、戦場から逃げ出したら彼に負けたような気がするからだ。……というのは実際のところ建前で、自分のすぐ隣で彼が息をしているということを感じたいだけなのかもしれなかった。眠るときにシキが隣にいると安心するのは確かだ。だから床を同じくすることは、決してシキに強制されていることではなかった。

 そんなことを考えながら湯浴みを済ませて寝室のドアを開けると、シキはすでに眠っているようだった。浅い呼吸を繰り返しているシキの寝姿に息をのむ。実は、アキラはシキが「目覚めて」から、彼の眠っているところをしっかり見たことがなかった。

 行為の後、大抵アキラはほとんど気絶するように眠るし、翌日の朝、シキはいつの間にか起きている。入れ替わるように眠るときも、シキはこんなに無防備な寝顔を見せることはなく、大抵壁に向かって横向きに寝ている。今アキラが目の前にしているのは、そんなレアなシキの姿なのであって。

(シキってなんでこんなに綺麗なんだろうな……)

 久しぶりに見る端正な寝顔に思わず見入ってしまう。光を当てたら影を落としそうな長いまつげや、陶磁器の様に白い肌は美しいと言うほかない。だが何よりも「眠って」いた時よりずっと生気があるように感じられて、そのことにひどく安堵している自分がいた。

 立ち尽くしているうちに恥ずかしくなってきて、そそくさと、しかし彼を起こさぬよう最大限に配慮しながら自分の毛布にくるまった。

 シキが急に狸寝入りをやめて後ろから襲ってきたりするのではないかとしばらくは身をかたくしていたが、どうやら本当に眠ってしまったらしい。シキの帰宅が朝方だったりアキラが不在だったりした日を除けば、もしかしてこんなふうに普通に並んで寝ることなど初めてかもれなかった。

 そこでふと、本当に無意識に、心の中で呟きがこぼれた。

(あんなふうにキスなんかしてきたくせに何もしてこなかったな……)

 ……いや、いいんだけど。

 別に。

 言い訳がましくそんなことを思って、アキラは無理やり瞼を下ろしたのだった。

 *

 翌日、思ったより早くに目覚めたアキラは、隣に気配があることに驚いた。

 そっと起き上がると、シキは寝る前と同じく浅い呼吸を繰り返し、寝顔を漏れる朝日のもとに晒していた。何となく気だるげな気色があるのは気のせいだろうか。

 きっと今回の仕事が面倒でさすがに疲れたのだろうと推測し、一人で起きることにした。特にしなければいけないこともなかったので、リビングで本を読んだりテレビを見たりしてだらだらと過ごした。

 何しろ今日は久しぶりの休日なのだ。シキもおとなしいことだし、思いきり羽を伸ばしてしまおう。

 そんなこんなでそろそろシキも起きるだろうという時間になったので、キッチンに立って朝食の準備を進めていたのだが、なぜかいつまでたっても起きてこない。

 さすがに不審に思って寝室のドアを開けると、シキの様子がなんだかおかしい。

 なんだか、顔全体が少し上気しているような……

「おい、シキ。具合悪いのか?」

 思わず駆け寄って声を掛けると、赤い瞳が姿を現した。

「……」

 ――やはり、いつもと違う。シキは起き抜けだろうがなんだろうが、いつでも隙のない男のはずだ。

「おい、頭痛いとかだるいとかあるか?」

「……わからんが……起きれん」

 声がかすれている。まさかと思い手のひらを額に当てると、ものすごく熱かった。

 途端、気が動転する。まさかこのシキが……熱を出した、だと?

「……おい、思いっきり熱があるじゃないか! とにかく何もしないでそこに寝てろよ」

 慌てて言うと、シキは眉をしかめた。

「なぜ俺がおまえに命令されねばならんのだ……ッゴホ、」

「いいから!」

 咳き込むシキに無理やり毛布をかぶせておとなしくさせると、アキラはキッチンに引き返して冷蔵庫から氷まくらを出し、ついでに体温計も持ってきた。

「はいこれ、タオルで冷たさを調整してまくらにしろ。……体温計の使い方、わかるか?」

「そんなもの使ったことあるわけがなかろう」

 平然と言い放った。

「う、やっぱりな……ほら、このボタンを押してから先端を脇に挟むんだよ。こうやって」

 実演してやると、シキは興味深げに見ていた。まるで子供を相手にしているようだ。

「ほら」

 シキに渡すと、彼はしぶしぶボタンをいくつか外して体温計を脇に挟んだ。

「あまり気分のいいものではないな」

 ――気分よく体温をはかる必要ってあるのか。

 というツッコミはしなかった。

「動かさないで、ピピッと音がするまで待つんだ」

「……面倒だ」

「それくらい我慢しろよ」

「……」

 なんだか調子が狂う。不機嫌な顔つきながらも大人しく体温計を脇に挟むシキ――頬が緩みそうになるのを堪えていると、ピピッという軽い音が響いた。終わりの合図だと知らないからか、シキは固まったままだ。

「ほら、貸せよ」

 手を差し出すと、シキは何も言わずに脇から体温計を出して手のひらに乗せた。

 ――三十八・七度。

「えっ……!?」

 あまりの高熱に、目を瞠る。

「何だ。何かわかったのか?」

「もういいから寝ろ。とにかく寝ろ。いいか、くれぐれも動くなよ。すごい熱だ」

「熱……」

 シキがいまいち実感が湧かない、という様子で呟いた。

「そうだ。熱だ。今日は仕事受けてるのか?」

「……いや、今日はない」

「じゃあ大丈夫だな。薬とか食べ物とか用意するから横になってろよ」

「なぜお前に命令されねばならんのだ」

 こいつ……。

「あのな! ……っ、主が不調のときに働くのも所有物の仕事だろ!? もうこれで納得しただろ。いいから早く寝ろ!」

 一気に捲し立てると、シキが一瞬目を瞠った――ように見えたが、反応をきちんと確かめることなくくるりと踵を返して部屋を出た。

(……ったく、俺も何言ってんだ)

 自分の発言を極力思い出さないようにしながら、アキラは薬を買うべく家を出た。風邪薬を手に入れたら、次は食事を作らないと。

 *

 アキラは味見用のさじを置くと、キッチンでひとり頷いた。お粥なんて生まれて初めて作ったが、結構食べれそうな気がする。

 いつもの自分の料理がそんなにうまくないのは十分承知しているし、まともなものが出来るとは思っていなかったが、病人には粥とどこかで聞いたので一応作ってみたのだ。

「うん、たぶん大丈夫だな。食える」

 確かにどろりとはしているが、それは粥だからだろうし、味が薄いかもしれないがどうせ病人にはわかるまい。

 そう自分を納得させて、アキラは薬と水と一緒に粥を持って行った。

 寝室をのぞくと、よほどつらいのだろう、シキはぐったりした様子で目を閉じている。この男のことだ。生まれてこの方、熱なんてほとんど出したことがないに違いない。負担感も常人の比ではないだろう。

「シキ。飯、食うか」

 寝ていたら引き返そうと思って小さな声で話しかけると、シキは瞼をゆっくり持ち上げた。

「ああ」

 相変わらず声は掠れていて、なんだか痛々しい。この男も、人間だったということか。

「お粥、作ったから。熱いから気をつけろよ」

「フン、病人扱いか」

 起き上がりながら悪態をついているぐらいだから、まだ大丈夫だろう。少しばかり安心する。

「病人だろ、どう見ても。……ほら、」

 ベットの空いているところに腰掛け、匙にとって冷ました粥を差し出すと、シキは今度こそ眉を盛大にしかめた。

「何のつもりだ」

 そこで気づく。

「あ、いや、つい……。悪い。さすがに自分で食べられるよな」

 シキの身の周りの全ての世話をやっていた頃の癖で、つい余計なことをしてしまった。今更なことかもしれないが、意識のある人間の前でやってしまうとなんだか気まずい。

「まあいい。食わせろ」

「え……あ、ああ」

 戸惑いながらも、請われるままに匙を差し出す。パクリ、と形の良い唇が開いて粥をさらっていった。

 ――なんなんだ、このなんとも言えぬ色気のようなものは。

 アキラの中で、妙な感覚が広がる。

「何だ。そんなに主の食事に興味があるのか?」

 からかうような声にハッとする。知らず彼が食べる姿を凝視していたらしい。

「いや、なんでもない。……ほら」

 それからしばらく黙々と粥をすくっては差し出す動作を繰り返していると、段々お互いに慣れてきた。テンポの良い匙のやりとりに、不思議な気分になる。

(こんな日がくるなんて、思ってもみなかったな……)

 アキラが食べ物を差し出す。シキがそれを自ら食べに来る。そしてまた差し出す。

 決して一方通行ではないやりとりに、あたたかい何かを感じた。なんだかんだで、アキラはシキが「戻って」きたことが、素直に嬉しかったのだと気付いた。

 シキが最後のひとすくいを口に入れて咀嚼するのを見届けて、アキラは器を横の棚の天板の上に置いた。すると、突然腕を強い力で引っ張られた。

「……!?」

 気づいたら、赤い瞳が目の前にあった。

 視線が交わったのはほんの一瞬だけで、すぐに近づいてくる気配に反射的に目を閉じる。

 ――唇に感じる、熱。

「……」

 熱い舌でなぞられて、思わず開いた唇の間にシキがすかさず入り込んでくる。一瞬で思考が霞んでいく。

 とにかく、熱い。交わされる吐息も、口内を蹂躙する舌も。

「……っ」

 獣のように暴れる熱が遠ざかり、アキラは軽く息を整えながら目を開けた。

「なん……だよ、急に……」

「好きだろう」

「は……!?」

 思わぬ言葉に、心臓の音が耳元でうるさく響いている。

「物欲しそうな顔をしていたぞ」

「そんなわけないだろ! ったく、風邪うつったらどうすんだよ!」

「フン、そんなことは知らん……、っ」

 シキはそこで盛大に咳き込み、背中を折った。

「もういいから……早く治せよ。はいこれ、薬」

 シキが風邪薬を飲むのを確認し、アキラはそそくさと部屋を出た。

 まったく、シキの考えていることはいつもわからないことだらけだ。

 あの傲岸不遜、冷酷、ド変態の代名詞のような男が、時々熱っぽい口づけをしてくるようになった意味がわからない。しかもその理由はアキラが口づけを好んでいるからだ、などとのたまう。まったくふざけている。

 あの男の口づけを受けるたび、アキラの思考はあっという間に溶かされていく。そして何故か酷く混乱する。何かに奥深いところをかき乱されているような、そんな感覚だ。

 まったく、寝ても覚めても厄介な男だ。一体シキは自分を何だと思っているのだろう。一つの所有物、でしかないのだろうか。それにしては、最近のシキはどこかおかしい。シキの態度は、トシマにいる頃とは、そして少しずつ「眠って」いく頃とも、明らかに違う。

 とはいえ、自分もシキのことをどう思っているのか、などという問いには答えられそうにない。今の自分たちの関係に、何と名をつけたら良いのか――考えたこともあったが、もうとうに諦めた。

 あの日、「最後」がどこにあるとしても、そこまで共に行くと決めた。

 それだけで十分だった。

 そう思えば、シキの不可解な行動も、瑣末なことだ。「なんとなく」――きっとそうなんだろう。あの男は。今更なんだかんだと考える必要は、ない。

 軽くため息をつき、アキラは赤い夕日の差すリビングで、ソファにごろりと横になった。慣れないことをしたり考えたり、いろいろと疲れてしまった。そのうち眠気がやってきて、アキラは瞼が落ちてくるのに任せた。

 *

 一体どれぐらい寝ていたのか。気付いたら窓の外は真っ暗になっていた。いつまでものんびりしていられない。夕飯を作らなければ。アキラはさっと体を起こした。

 代わり映えしないが、昼と同じくお粥をつくった。今度は昼のよりも少し美味しくできた気がする。アキラはひとり満足げに頷き、薬と一緒にお盆にのせて寝室へと運んだ。

「夕飯、できたぞ」

 電気をつけずに小声で呼びかけると、もそもそと布団の擦れる音がしたので、断ってから明かりをつけた。

「同じで悪いけど」

 棚の天板にお盆を置くと、シキは自分で食べると申し出た。

「もうだいぶ良くなってきたみたいだな」

「……ああ」

 顔の血色が良くなっているし、呼吸も楽そうだ。この回復力の高さはさすがである。

「でも無理はするなよ。調子に乗るとぶり返すから」

「……フン、随分と偉そうな口の聞き方だな」

 と悪態をつきつつ、大人しく粥をすくって食べているシキが何となく愛らしくも見えてくるのが憎い。

 突っ立っているのも難なので、ベッドの空いたスペースに腰掛ける。何を話すわけでもない。彼を見つめるわけでもない。何もない部屋の隅のほうに目をやりながら、ただそこにいた。背中越しに、淡々とした食器の音が聞こえてくる。

「……世話をかけたな」

 シキの口から不意に零れたのは、あまりにも意外な言葉だった。

「……え、ああ、別に、……いい」

 礼に類するような言葉をシキの口から聞いたことなんて、それこそ初めてで、アキラはぶっきらぼうに返すことしかできなかった。シキが一体どんな表情をしているのか、気にはなったがとても正視できそうになかったから黙って背中を向けていた。

 そのままシキが食べ終わり、薬を飲んだところで持ってきたものを回収して部屋を出た。

(今日は一緒に寝ない方がいいよな。うつったら嫌だし)

 そもそもが、あのシキを屈服させたほどの風邪菌なのだ。恐ろしいことこの上ない。

(まあ、昼にキスされたからもう手遅れかもしれないけどな)

 用心はしたほうがいい。アキラは淡々と残ったお粥を夕食にして、風呂に入った。

 *

 寝る支度を整えてから、体温計と水を持ってシキの部屋の扉をそっと開けた。

「起きてるか?」

「ああ」

「一応、もう一回熱はかっとくか?」

「必要ない」

 眉をしかめたところを見ると、どうやら体温計がお気に召さなかったようである。

「水、持ってきた。飲んでおいたほうがいい」

「ああ」

 差し出されたコップを受け取り、シキはそれをほとんど一息に飲んでしまった。

「まだ要るか?」

「いや」

「それじゃ、俺寝るから」

 言い置いて踵を返す。

「何処に行く」

 なぜかうしろから咎めるような声が追いかけてきたので、振り返った。

「俺はリビングで寝る」

「……何故だ」

「感染るといやだから……」

「……」

 困った。

 その沈黙と鋭い眼光は、「一緒に寝ろ」という意味なのか……?

「わかったよ」

 アキラは手に持っていたコップを棚に起き、電気を消してから布団に潜った。

 ――アンタって、こんなに寂しがり屋だったか?

 なんて言った暁には血よりも赤い殺人光線が飛んできそうなので黙っておいた。

 ……目を閉じると、なぜかとてつもない違和感に襲われた。二人分の呼吸と布が擦れる音がただ静かに響いている。時間が動いているのに止まってしまったような感覚。そして酷く不安になっている自分に気づく。

 シキは生きているし、「眠って」いる訳ではないとちゃんとわかっている。あと何時間もすれば、また同じ朝が来るだけだ。シキは自ら起きて、引き受けた仕事をこなしに外に出るだろう。なのに、動悸が収まらない。

 とうとう耐えられなくなって身じろぎすると、うっかりシキの方に身を寄せてしまったらしい。存外近くにいて、背中どうしがぶつかってしまった。

 しまった、と思った時は遅かった。

「……何だ」

 シキの声が背中越しに聞こえてくる。

「………………」

「誘っているつもりか?」

「まさか」

 からかうような台詞に、早まる鼓動を悟られないようにしながら即答する。

 

「……お前が馬鹿なことを考える必要はない」

 

 しばらくして静寂を破った言葉に、一瞬息ができなくなった。きっとそれも、伝わっていたのだろう。シキが吐息だけで笑うのがわかった。

 自分の心は、全て、見透かされている。

「…………おやすみ、シキ」

 毎日欠かさず投げかけていた言葉を本当に久しぶりに口にすると、

「ああ」

 本当に短い返事が、返ってきた。

 シキが――いる。ここに。

 それだけで、

 

 アキラは背中に確かな熱を感じながら、そっと眠りに落ちた。

 

「…………馬鹿が」

あとがき(再録集『さいはての花園』収録作品に寄せて より)

【熱】 ……Web発表作品

ちょっとやわらかいシキアキ。シキが目覚めたあとすぐは、今までの緊張の糸が緩み彼の態度に戸惑いつつシキとの関係を再スタートさせていくアキラというのが良いですね……。目覚め直後?虎穴的シキアキに至る中間の時期がとっても好きなので、またどこかで書くかもしれません。