さいはての花園

おやすみ

 舞台で踊る役者が何もせずとも、時が来れば幕は閉じすべては闇に包まれる。幕を下ろすのは誰のつとめか。その綱を引くのは誰なのか。舞台の上で必死に生きる役者にはわからない。知る必要もない。

 死神が甘やかな終わりを告げるように微笑んでいる。俺の幕を下ろすのはおまえか、はたまた別の誰かか。誰でもいい。舞台が終わるその前に、せめてこの祈りを聞き届けてほしい。

 

 どうか、彼をひとりにしないで。

 さみしくて、よわくて、あわれな、シキという名を与えられた男を。

 

 強く気高くあろうともがいた哀しい命を孤独にしないためなら、世界を滅ぼしたっていい。他には何もいらない。否、他には何も無い。

 この手に隠したナイフは、いつだって彼の命を孤独から拾い上げるために在った。この刃が閃くことはとうとうないというのなら、死神よ。俺の代わりにその鎌を振ってほしい。

 

 死神が微笑んで、目の前が真っ赤に染まった。

 ―*―

「っ……!」

 大きな窓から差し込む真っ赤な光に瞼の奥まで焼かれて、思わず目を見開いた。

 壁を覆うように張られたガラスを通して、夕日が部屋のすべてを赤く染めていた。アキラはその焼け付くような赤に染められた布に包まれて、ベッドの上に横たわっていた。自らの居場所を認識した途端に頭を殴られるようなひどい頭痛がやってきて、視界が醜く歪んだ。その中に、アキラを覗き込んでくる男を捉える。彼をよく見ようと目をこらすうちに、視界が少しずつクリアになっていった。

「……」

 男は、アキラに静かな視線を向けていた。目の前にいるアキラを認識するようにひとつ瞬きをすると、右手にはめていた手袋を脱いだ。素肌を露わにしたその手は、アキラの頬をゆっくりと撫でた。細く白い指が、アキラの顔の輪郭を確かめるように顎に絡みつく。

「……アキラ」

 唇の隙間から漏れた低い声は掠れていた。彼の様子は、アキラの記憶の中にあるシキという男と随分違って見えた。アキラが知っているシキの肌は彼よりは幾分か血色が良く、指もこんなに折れそうなほど細くはなかった。頬も心なしかこけている気がするし、何よりもその瞳に宿る光はあまりにも弱々しかった。彼を「シキ」と称するには、あまりにも。

「シキ」

 それでもその名を口にすれば、彼は唇の端に笑みのようなものを浮かべた。シキ。それは確かに彼に与えられた名、なのであった。

 シキはアキラの鼻梁とかさついた唇に指を這わせたあと、不意に立ち上がって部屋の扉の隙間から誰かに声をかけた。間もなくして白衣を着た男がアキラのもとにやってきて、脈を取ったり、目の奥を覗いてきたり、肺の音を聞いたりした。

「王よ……あまり申し上げたくないことですが」

 最後に注射器で幾ばくかの血を吸い取ると、男はシキに向き直った。

「まどろっこしい言い方は不要だ」

「失礼しました。アキラさまはもう、……長くはないでしょう。意識が戻ったのは束の間の奇跡に過ぎません」

 男は横目でアキラを見下ろしながら淡々と告げた。そこで、アキラは自分が命に関わるほどの状態でひどく長い間眠っていたのだと気づいた。それこそシキがすっかり様変わりするほどに。

「そうか」

 アキラのもとにまもなく訪れるという死の宣告に、シキはそう応えたのみだった。瞳の色は相変わらず血のように鮮やかに赤かったけれども、そこに湛えられていたはずの光はぽっかりと抜け落ちたままだ。

「……王、」

「下がれ」

「は」

 まだ何か言いたげな白衣の男を追い出し、シキはアキラが横たわるベッドに腰掛けた。彼の体重で、アキラはやわらかな布の中にわずかに沈みこんだ。

「ねえ、シキ」

 首を少しだけ動かして、微笑みを浮かべながら話しかける。先ほど水を飲まされたとは言え、喉はまだひりついていてまともな声は出なかった。耳の中に綿を詰められたように声も音も遠くで鳴っていたから、自分の声がよく聞こえていないだけかもしれない。だがそんなアキラのかすかな呼びかけに応えるようにシキが顔を寄せてきたということは、言葉は届いているのだろう。

「おれが死んだら、どうする?」

 口元でそばだてられた耳に、そんな問いかけと共に吐息を吹き込んだ。シキは突拍子もない問いに動じることもなくしばらく沈黙していたが、やがてアキラの耳元に唇を寄せてきた。

「さてな」

 ふ、と。アキラが贈った吐息を返すように添えて、シキはそう答えを寄越した。二人きりの部屋で交わされた、秘める必要などどこにもない短い密談。だが秘め事が持つ甘美とシキの吐息は、アキラの脳の奥を融かしてゆるやかにかき混ぜた。そのまま意識がふわりとどこかへさらわれそうになる。目覚めたのは奇跡だ、と言った医者の言葉を思い出す。

 朦朧としながら窓の方を見遣ると、サイドテーブルにぽつんと置かれたガラスのコップが目についた。中身は今し方アキラに飲み干されて、ただの硬く冷たい塊と化していた。

 たぶん、自分たちはアレと同じなのだ。

 からっぽのコップには解けない呪いがかかっていて、注がれても注がれても中身が満たされることはない。永遠に空のまま透明で、それでもなぜかそこに在り続ける。かつてコップを満たしていたものはきっと、あの日にすべて失われたのだろう。あの時空いてしまった穴はどこにあるかすらわからない。だから塞ぐことなどできやしない。

 トシマで起きたすべてが決したあの日、アキラは声を飲み込んだ。シキの中で生まれた純然たる狂気から目を逸らした。すべては手遅れで、どうにもならなかった。どうにもならないままで、ここまで来てしまった。シキは彼の血の呪いをみずから魂に刻み込み、アキラもまた同じ呪いをこの心臓に抱えたままシキと共に堕ちることを選んだ。呪いは二人を強くかたく結びつけ、縛り上げた。アキラはこれからもこの血を彼のコップに注ぎ続けるだろう。この体から滲み出す呪われた血の、その最後の一滴が枯れるまで。

 彼から逃れることなどできない。逃れるつもりもない。アキラの世界にはシキしかいない。それでいい。すべてはアキラ自身の選択だ。そう信じた。

「……ッ」

 目の前で、シキが突然体を折ってえずいた。磨き抜かれた硬質な床の上で液体が跳ね上がる音がした。

 終わりが近いのは、シキも同じだ。アキラが自分の死期を悟り始めたのはいつのことだったか。アキラの中で荒れ狂う血の呪いに彼を一緒に引きずり込むように、彼の口にするものすべてに少しずつ毒を混ぜた。シキを孤独にしたくなかったのか、あるいはアキラの心がひとりで死ぬことを拒んだのか。はたまた両方か。破綻した絆はふたりの死さえも結ぼうとしていた。

 アキラの意識がはっきりしていた間にも、シキは少しずつものを食べなくなっていた。否、食べられなくなっていった。口に含んだものを後で嘔吐することがあったことを、アキラは知っていた。彼ほどのひとが、アキラが毒を盛っていることに気づかないはずがない。アキラを咎めることはいつでもできたはずだった。彼は自ら毒を喰らい、そして弱っていった。

 アキラが長いあいだ意識を失ったことで、毒を含まなくなった彼は回復していてもよさそうだった。だが、彼は以前の生気を取り戻すどころか今にも消えそうになっている。いったいアキラが眠っているあいだの時間を、シキはどう過ごしたのだろう。彼はこの部屋でどんな夜を明かしていたのだろう。知り得るはずもなかったが、目の前にある彼の弱り果てた様子はアキラの心をあたたかく満たした。

 ――かわいそうなシキ。でも、もう大丈夫。

 自分たちはどこまでも共に歩いてゆける。死の瞬間まで、あるいはその先に待ち構えるであろう地獄までも、ひとかたも離れることなく一緒にいられる。

「シキ」

 手の甲で口を拭ったシキに、色を含ませた声で囁くように呼びかけた。シキはその真意を問うようにわずかに目を細めたかと思うと、アキラの小さな体に覆い被さるようにして寝台へと上がった。

「……シキ」

 わずかに残った力をこめて、震える手をシキへと伸ばす。彼の唇の合わせ目に指先を差し入れると、アキラの期待に応えるように赤い舌がちろりと姿をあらわした。ああ、あたたかい。どれだけ彼が人間離れした美しさを持ち、いまその命の灯火が揺らいでいたとしても、体の内に湛える熱だけはひとのそれだった。

 シキはアキラの手を取り、その熱い舌で指の先から根元までをも余すことなくなぶった。一瞬にして、アキラの体の芯に燃え上がるような熱が生まれる。

「っふ……ぁ、あ」

 シキによって作られたこの浅ましい身体は、主の求めに応じていとも簡単に鳴き声を上げた。死の淵に立ってなお、アキラの身体は肉欲にすがりつこうとしていた。

「しき、し……き」

 シキの手によってアキラにかぶせられていた布は取り払われ、下穿きは床へと放り出された。次いで弱々しい屹立を擦り上げられれば、滞っていたはずの全身の血がにわかに騒ぎ出した。

「……」

 耳の中に、わずかに上がったシキの息が吹き込まれる。まだ柔らかさを残したシキの中心が、ゆっくりと身体に潜り込んでくる。

「は……ぁっ」

 腹の奥を満たす圧迫感。アキラはシキの首にしがみつき、必死で息を継いだ。他でもないシキが、アキラの中で脈打っている。アキラの身体が、魂が、悦びの声をあげている。

「シキっ……」

 シキが腰を揺らめかせる。シキの固く細い腕がアキラの背中をかき抱く。粘膜が擦れ合い、打ち合った肌が弾けるように鳴った。力をなくした身体で、緩慢で拙い情交を演じた。ほんの少し揺さぶられるだけで、頭の奥はぼうっと霞がかっていく。視界は白く、かすかに聞こえていた音も遠ざかっていく。

「あ、あ……ぁ」

 漏れ出る声は自分のものではないようだった。自分は誰で、どこにいて、どうなるのか。そのすべてが水に溶かした絵の具のようにその色を薄めて透明になってゆく。

「――アキラ」

 突如として、彼の声が頭に直接降りかかってきた。それは己の名、であっただろうか。

(シキ)

 声には出さずに呼びかける。呼応するようにシキの身体が震えて、奥で熱がほとばしるのを感じた。

 ―*―

 どこまで意識があって、どこからが夢だったのか判然としない。アキラが自らの意思で目を開けたとき、傍らには目を閉じて横たわるシキの姿があった。

「……」

 眠るひとがまるで死んでいるように見えるというのはよくある話だが、息する音に耳を澄ませ手のひらを口元にかざさなかったならば、アキラはシキが死んだと思っただろう。

 だが、どうやらシキはまだ死んでいなかった。アキラはいよいよ力が入らなくなってきた身体をなんとか起こし、ベッドの木枠とマットの間にあるわずかな隙間に手を突っ込みまさぐった。指先にかたいものが触れて、アキラはそれを取り出した。手の中にあったのは、シキをこの闇に落とした男が、今となっては遠い日、自分に与えたナイフだった。

「……そんなものを閨に隠していたとはな」

 いつのまにか覚醒していたシキが、アキラが手にしたナイフを見遣り呟いた。

「ふふ」

 いつかこんな日が来ると思っていた。アキラが最後まで手離さなかった唯一の「モノ」。彼を独りにさせないように、いつかこの刃が閃く日が来ると知っていた。このナイフに刻まれた言葉の意味をアキラは未だに知らなかったが、きっとシキの身に宿った呪いを解いてくれるに違いない。アキラはなんとなくそんな気がしていた。

「これで俺を、連れて行って」

 ナイフの鞘を抜き取ると、冷たい刃がぬらりと光った。アキラはシキの手を取り柄を握らせ、その手を両手で包み込んだ。

「ほら」

 シキの手を喉元に引き寄せると、彼の瞳の奥がゆらりと揺らいだ。甘い蜜で誘惑するように、シキの首筋を撫でる。ドクン、ドクンと。薄い皮膚の下に流れる真っ赤な血を想像した。動脈をなぞるように舌を這わせ薄い唇を寄せると、アキラの両手の中で彼の手に力が入ったのがわかった。アキラが手を離しシキの首に腕を回すと、シキはとうとうアキラの首筋に刃をあてた。久しぶりに味わう冷たく硬質な感触に、思わずぞくりとした。まるでシキと出会った頃のように、ふたりの視線が深く交わる。シキの瞳の中に、あの日の欲望が灯る。アキラはゆったりと微笑んだ。

「シキ」

 ――早くそのナイフで俺の喉を掻き切ってよ。

 アキラの願いに応えようと食い込んだ刃はしかし、呼吸をいくつ重ねても皮膚を破ることはなかった。

(やっぱり、思った通りだ)

 ――あなたは俺を、殺せない。

 かつて二人が歩んだ日々と同じだった。シキはアキラを殺せない。アキラの瞳がシキを見つめ続ける限り、永遠に。

 シキは今やどんな存在よりも強く、その手の内に何もかもを収めたくせに、アキラがいないと生きてゆけないのだ。そのことにアキラはとっくに気づいていた。だからアキラが死ぬ前に、シキを殺しておきたかった。毒も、刃も――彼を孤独の闇に落とすくらいなら、彼からその孤独を命と一緒に取り上げてしまおうと思った。

 もう、さようならだから。あなたにこれ以上さびしい思いはさせたくないから――

 アキラはシキからナイフを取り上げると、今度はシキの喉元にそれを当てた。息を吸って、吐いて――手にありったけの力をこめた。さあ、これで終わり。長かった舞台も、ようやく幕が下りる。……そう思うのに、シキの体から吹き出す鮮血を何度も想像してきたはずなのに。ナイフがシキの皮膚を破ることはなかった。

 カタカタと小刻みに震えるナイフはやがてアキラの手から落ち、綺麗なままでやわらかな布に抱きとめられた。

「ごめんね、シキ」

「……」

 アキラは最後の望みをかけてシキの喉を締めるように両手をあてがったが、この痩せ細り枝のようになった指先に彼の命を絶つほどの力はもう残されてはいなかった。絶望と諦めが、アキラの胸に広がる。

 

 ――やっぱり、俺はあなたを殺せない。

 

 わかっていた、本当は。シキがアキラを殺せないように、アキラもまたシキを殺せないこと。彼を孤独にさせないと誓いながら、その実シキのいない世界を、絶対的な孤独を、アキラ自身が最もおそれていたということ。

 アキラは目を閉じ、シキの唇にやさしい口づけを贈った。応えるように、シキはアキラの額を撫でた。まもなくして、額にやわらかい唇の熱を感じた。

 二人は抱きあいながら身体を横たえた。ただ呼吸をしながら、互いの体温を感じた。そのうち陽はすっかり落ちて、やがて灯りのない部屋に月明かりが差した。窓ガラスの向こうにぽっかりと浮かぶ満月を、狭まった視界の中にとらえた。

 自分たちはガラスのコップのように透明なはずなのに、もう永遠に満たされることはないのに、この身体には赤い血が流れている。そしてこの生を己から切り離すことさえできない。そのことがひどく不思議だった。どうして自分たちは生きているのだろう。その答えはきっと、どこにもない。

 互いを殺すことができない自分たちは、こうして眠るように死んでゆくしかないのだろう。行き先を決められないのなら、誰かに幕を下ろしてもらうしかないのだろう。それでもこうして抱きあっていれば、きっと同じ場所に行けるから。だからこの手を、どうか離さないで。

 ――ひとりにしないで。ひとりにならないで。

 すでに動かなくなったシキの手を握り、アキラは祈った。すると、ぴくりと彼の指先が震えた気がした。

 あなたがいない場所に、何の価値もない。この世でさえ、肉体の入れ物にしかならない。だからこれからシキが行くところに、俺も連れて行って。

 

 あなたがいれば、それでいい。他には何も、望まない。

 

 ――おやすみ、シキ。

 そう呟いて吐いた息が、最後だった。

あとがき(再録集『さいはての花園』収録作品に寄せて より)

【おやすみ】 ……書き下ろし

今までほとんど取り組んでこなかったED3を、しかも「最期」というテーマで書くのはかなり大変でした。

プロットを書いたあとでゲーム本編の分岐前~ラストをもう一度プレイしたのですが、この二人は思ったより人生を楽しんでいる(?)ように見えました。誰が見ても破綻している関係だけれども、本人たちには悲壮感の欠片もない。そんな本編から得た印象をヒントにしてもう一度練り直し、甘い仕上がりにしてみました。

ED3の二人がガラスのように透明で、その中身は空っぽなんだというイメージは以前から持っていたので、比喩として「ガラスのコップ」を取り入れてみました。ラストに向かうところは、ED3の章にあてた言葉を意識しつつ、シキアキの中に共通して流れている関係性も織り込めるように表現を選んでいきました。サビもちゃんと、入っています(笑)。互いを殺せない弱さと、この二人の間にしか存在しえない強い絆。そんなところが表現できていたらいいなと思っているのですが、いかがでしょうか。