真夜中の静寂に包まれたこの部屋を照らすのは、カーテンの隙間から漏れる月明かりだけだった。
鋭く、しかしどこかやわらかなその光に抱かれた青年の横顔は、少しの疲労を滲ませて青白く透き通っている。
誘われるように手を伸ばし、かさついた親指の先でその白い頬をそっとなぞる。
子供のようなつやと弾力があるわけではないが、皺のない滑らかな肌の感触。
先ほどまで自分の中で燃え上がっていた激しい炎ともまた違う、あつい何かが胸の奥でじわりと広がった。
その滑らかな肌に指を這わせるたびに、そしてその弾力のあるつややかな唇に口づけるたびに、たとえようもなく深い幸福を感ずるこの胸 に濃い翳りがさすのを自覚して一体どれほどになるだろう。
もうそう長くない残された時間の中で、この世に自分の生きた証を少しでも残そうと見苦しく足掻くだけの己と、得たばかりの翼を広げ無 限に広がる世界に飛び立っていこうとする目の前の若い命。
二つの対照的な生を繋ぐのは、愛か、あるいは愛の形を模した惰性か。
本当に自分が彼をここに繋ぎとめてもいいのかという迷いが、源泉の心を絶えずぐらつかせた。
墓まで連れていく――などとほざいたのはどこの誰だったか。
わかっている。本当は何が二人を繋ぎとめていようと構わない、この愛しいいのちに寄り添えるのならば何だっていい、そう思って無様に 縋っているだけなのだと。
そんな自分を、形だけの良心が咎めているにすぎないのだと。
トシマで出会ったアキラは、言うなれば何も知らないちっぽけな子供だった。広い世界も、己の可能性も何もかも知らないままあの街に放り込まれ、ただ運命に翻弄されていただけだった。
そんな彼に自分がたまたま、生半可な情で手を伸ばしたのだった。
そしていつの間にか、あの真っ直ぐな瞳に吸い込まれ、――この両の腕の中に閉じ込めてしまいたいと、浅ましくも思ってしまったのだ。
呪われた血を受け入れ、過ちしか犯すことのできない自分をも許そうとする彼に甘え、その瞳に世界がうつる前に、姑息にもその両目を手 で覆い隠して連れ去った。
――そのまま、来てしまった。
形だけは両眼をふさいだ手をはなしておきながら、その実、手放す気など毛頭ない。
今の自分は、そういう、浅ましい生き物だった。
彼は、そんな自分を照らす太陽だった。
その光が眩しければ眩しいほど、背後に落ちる影は一層濃くなった。
けれどその光を永遠に浴びていたかった。
ふと耐え難い衝動がこみあげて、源泉はアキラの横に手をついて覆いかぶさるようにして彼を見下ろした。
ぎぃ、と軽く軋むスプリングの音が一瞬、己を我に返らせる。――しかし気づけば右手がさらさらした前髪をかき分けて、あらわになった 額に唇が吸い寄せられていた。音もなく離れていく唇。
月明かりで人形のように白く見える肌はしかし、あたたかかった。
壊れるほどに抱きしめて、閉じ込めて、ずっと傍に置いておきたい。
そんな狂おしい衝動が、老いた自分の中に未だ存在することが、驚きでもあり、憎くもあった。
「……ん」
その時、長い睫毛が揺れた。
慌てて退こうと思ったがすでに遅く、澄んだ碧眼が姿をあらわした。
「……もとみ…?」
目を手の甲でこすりながら、掠れた声で己の名を呼ぶ。
――それだけのことに酷く、動揺した。
「……っ」
「――!?」
何の予告もなく両腕で細い身体を掻き抱き、一方的に口づけを押し付けた。空気にさらされ少しだけ乾いた唇を舌でなぞると、腕の中の身 体がびくりと震えた。思わずといったように開いた隙間に、舌をねじ込んだ。
こんなつもりじゃなかった、と脳裏で誰かが言い訳がましく呟く。
こんなのは、一方的で、盛りのついた若者なんかがやることだと、分別のついた大人のやることじゃないと、声がする。
「――っ、ん……」
しかしそれも、アキラの喉の奥から発せられた甘い呻きが鼓膜を震わせた瞬間に掻き消えた。
何も考えられず、ただ必死に、求めていた。
アキラの手が縋るように背中に回り、シャツを掴んだ。
無遠慮に口内を蹂躙する舌にも嫌がる様子を見せず、官能的な吐息を漏らしながら応じてきた。
「……、ッ、ン」
やがてエスカレートする行為に上手く息をつげなくなったアキラが腕の中で苦しそうに呻いた。
ようやく我に返り、ずるりと絡めた舌を解きながら離れる。
互いの唾液が混ざってできた銀糸が長く糸を引いて、今のひと時の口づけの激しさを示していた。
「その……す、まん」
しばらく二人はただ見つめあっていたが、源泉がようやくその一言だけを口にした。
「……いや、……。」
アキラは呆気にとられたような、気まずそうな微妙な表情を浮かべたあと、視線を脇に逃がした。
一体自分がどんなつもりであんなことをしたのかわからなかった。
ひと時の衝動で情欲を相手に無遠慮にぶつけることなんて、本当に久しくなかったことで――戸惑った。
「あの、さ」
その時アキラが横を向いたまま小さな声で呟いた。
「ん?」
できる限り平静を装って返答すると、アキラは決意するように息を吸って目を閉じた。
「いつも、――今みたいに遠慮しないで、……いい」
途切れ途切れに細く紡がれた言葉。その、意味は。
「――ったく、かなわんな、お前さんには」
全て見透かされていた。
共にあることに迷っている自分。
無意識に衝動を抑え込んでいる自分。
恐れて感情をさらけ出そうとしない自分。
全部、伝わっていたのだ。アキラには。
アキラは聡い。いつも頭ではなく心で、こちらの考えていることを敏感に察知している。
それを知っていながら逃げ続けた。結果的に、アキラを苦しめてしまっていた。
「好きなように……ぶつかってくればいい。顔色を窺われたり、遠慮されるのは、苦手だ。」
「すまん。」
「……。」
「……歳をとるっていうのはどうもいけないな」
「そうだな。」
頭をがしがしと掻きながら呟くと、アキラがこちらを見て笑った。
「しかしな、」
これを言ってしまえばその笑みが消えることを知りながら、それでも源泉は口を開いた。
「お前さんは若い。まだまだ時間も、可能性もある。それに比べて俺はもうどんどんくたびれていくだけだ。――本当に、」
「おっさん」
みなまで言わないうちに、思いのほか大きな声に遮られて源泉は思わず口を噤んだ。
「俺は、自分でおっさんについてくって決めたんだ。おっさんがよぼよぼになっていつか死んだら、その時はちゃんと一人で生きていく。 それだけだ。――おっさんが心配することなんて、ない。」
「――――」
月明かりだけの薄暗い部屋でも、アキラが真っ直ぐにこちらを見据えているのがわかった。
本気だ、と伝えていた。
呼吸が止まった。何も言えなかった。
「そう、か」
「ああ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど頼りないもので。
彼は――アキラは、思っていたよりもずっと、ずっと強く、前を見て生きていたのだと。
その上で、こんな己に寄り添っていてくれているのだと。
気づかされた。
今度こそ、共にいていいのだと。
彼が、彼自身が、それを望んでいてくれているのだと。
何も言わずに、ぎゅ、と抱きしめた。
若くしなやかな生命。
自分に分け与えられたそのいのちのひと時を、――大切にしたい。
その時、頬に生温かく湿った感触を覚えた。
「もとみ」
アキラの腕が背中に回されて、ささやきのような、つぶやきのような、淡く心地よい響きが耳から全身へとしみわたった。
もう、手放すことなど、できない。
てばなさなくても、いい
源泉はそっと目を閉じた。