主の補佐ではなく、指揮官として遠征に出向いたのは、ひどく久しぶりな気がする。それは主――シキの姿を長い間見ずにいたというのも久しぶりであるということを意味していて。どことなく、自分が緊張しているのを感じていた。
コンコン、と乾いた音が響く。
「失礼します」
控えめに扉に向かって声をかければ、すかさず返事が返ってきた。
「入れ」
シキだ。紛うことなき、主の声。当然のことなのに、どこか高揚している自分がいた。
ノブに手をかけ扉を開けると、シキは執務机で書類を決裁している最中だった。部屋の中程まで進んで膝をつき、軍帽を取って頭を垂れる。
「ただいま戻りました」
「そちらは随分手間取ったようだな」
「……俺の力不足です。申し訳ありません」
「……フン、まあ、事が済んだのであれば構わん」
鼓膜をふるわせる凛とした声に、打ち震える己を自覚した。きっとそれは、目の前の主にも伝わっているのだろう。カツ、カツ、と靴の音がしたかと思うと、目の前にシキが立っていた。ふと視界に入ったつま先に汚れを見つける。
「総帥」
「何だ」
「靴に汚れが。拭きましょう」
「……」
胸元から白い布を取り出すと、上から声が降ってきた。
「丁度いい。ついでに磨け」
「はい」
再び椅子に戻ったシキの前に跪き、差し出された靴に布を当てた。できることならば靴墨を用意したかったが、あいにくそんなものをいつも持ち歩いている訳ではない。
互いに一言も交わさぬまま、布をこするかすかな音だけが響く。アキラが完全に集中していた、その時だった。
「――ッ!!」
磨いていた方のつま先で、思い切り顎を蹴り上げられた。そして上向かされた視界の先に、シキの赤い瞳が、あった。
「――――……」
鋭い眼光に、射竦められる。
「やはりお前は美しいな、アキラ」
賛美の言葉を紡ぐその唇はしかし、嗜虐的に歪んでいて。
「――ぐっ」
次の瞬間、喉元を思い切り蹴られ、アキラは後ろに肘をついて倒れた。
「立て」
アキラがその言葉に従って立つと、シキは口元を吊り上げた。
「こちらに来い。可愛がってやろう」
これが。この時が。ただひたすらに、待ち焦がれていたもの――
高揚感をなるべく表に出さないようにして、アキラは一歩前へと進む。椅子に座る主を見下ろす背徳感が、背筋を震わせた。
シキがおもむろに手袋を脱ぎ捨て、放る。露わになった白い指が、アキラの顎にかかり、ピリ、と電流が走る。そのまま強く引かれよろめき机に手をついた次の瞬間、四本の指が勢いよく口内に突き入れられた。
「――――ッ、っ――」
息を詰まらせるアキラをよそに、シキの指はより深くまで侵入しようとする。
「ン、……ッ、」
「苦しいか」
交錯する視線。赤い瞳には、確かに愉悦が見て取れた。答えることなど、できやしない。シキはそれを知っている。
「さあ、うまく舌を使って俺を悦ばせてみろ」
――うまく舌を使ってみろ。そうすれば解放してやる。
あの、狭い部屋で鎖につながれ支配されていた記憶が脳裏に鮮明によみがえる。同時に、頭にカッと血が上った。この感情が、あの時の感情が、一体何なのか、名付けようもないけれど。いまここに、確かな昂ぶりがあった。
「――っ、……ふ、……」
交わる視線を一ミリたりとも動かさないまま、口内の異物に舌を絡ませ、息苦しさに喘いだ。瞬間、シキの瞳にさっと劣情がよぎるのを、アキラは見逃さなかった。
(俺は、この方から劣情を引き出せる、唯一の存在だ)
湧き上がる優越感に、全身の血が逆流する。
自分が。この自分だけが、この支配者から全てを引きずり出すことができる。いや。
(――俺だけでなくては、ならない)
「ン、……、ぅ、……っん」
知らず昂ぶって、小さなうめき声が上がる。嚥下することのできない唾液が、白い指を伝い落ちていく。頭の中が霞がかってくる。心臓の音が、耳の奥で鳴り響いている。
シキの瞳に暗い光が走ったと思った、その瞬間。
「か、は……ッ」
突然指が引き抜かれ、アキラは激しく咳き込んだ。
「フン。……無様だな」
揶揄するような台詞の直後、立ち上がったシキがアキラの上半身を執務机に押しつけた。配慮の欠片もない乱暴な動きに、背骨が悲鳴を上げた。わずかに歪んだアキラの顔を、シキの濡れた指がなぞる。目元を、頬を、唇を。まるで慈しむかのような手つきで。
自分の唾液が顔の上で乾いていくのを感じながら、アキラは胸の奥を暗く燃え上がらせた。慈しみなど、愛など、そんな生温いものは、要らない。さあ、早く――そう心の中で呟いた刹那、もう一方の手が軍服のボタンにかかり、器用にそれを外した。ピクリと反応したアキラに気を良くしたのか、シキの唇の端が吊り上がる。そのままネクタイをゆるめ、シャツをはだけられる。露わになった上半身を見て、シキの眉がひく、と痙攣する。
「これは何だ」
彼が問うているのは、胸のあたりから腹にかけての刀傷のことだろう。
「先の遠征で、例の男に斬りかかられた時のものです。俺の怪我も、報告にあったでしょう」
幹部に潜んでいた反乱分子をつかめなかったのは完全に己の失態だった。まさか自分の目の前で報告書を読み上げていた奴が、いきなり斬りかかってくるとは。――いや、当然、警戒してしかるべきだったのだが。彼ももちろんライン兵の一人だったから、咄嗟に防ぐのには少々無理があった。幸いかすり傷だけで済んだが、まだ数日しか経っていない傷は生々しいかさぶたに覆われている。
「雑魚が。――俺の傍を離れた途端、このザマか」
「――申し訳ありません」
「……己の身一つ守れぬ奴には、仕置きが必要だな」
シキが再び唇を歪めた次の瞬間、傷跡に爪が食い込んできた。
「――つ、ッ……」
「痛いか」
沈黙して視線を合わせると、ガリ、と音がして皮膚が引き裂かれる感覚があった。
「――――!!」
痛い。二回、三回と鋭い痛みが全身を走る。かさぶたを無理矢理剥がされ、肉を抉られたところが、熱い。傷から血が滲むのがはっきりとわかった。
「痛いか」
恐ろしいほどに柔らかい、主の声。
「いいえ」
はっきりと、否定する。途端、爪がぐ、と食い込んできた。思わず顔を歪める。
「もう一度聞こう」
「いいえ」
主の問を遮るように、言った。
「痛みなど……ありません」
「そうか。ならば――」
指に力がこめられる。深く――
(もっと深く、貴方とつながりたい)
痛みをはるかに凌駕する、震えるような快感。今この瞬間、自分は確かにシキとつながっている。
「いい格好だな」
侮蔑するような声音に、全身が昂ぶる。シキの赤い瞳が視界から消えて、腹に熱いものを感じた。舌が、むき出しの肉をなぞり、血を舐め取っていく。
「……は、ぁ……っ」
相反する血がざわめく。抗えない快楽に呑み込まれていく。その時、ピン、と音がして、臍に深く刻まれた所有の証が弾かれた。
「ぁ……ッ、う――――」
自分の嬌声が、喘ぎが、部屋の壁に反響して鼓膜を震わせる。そしてそれに混じる、かすかな水音。
もっと。もっともっともっと、貴方を下さい。ねだるように身じろぎすれば、シキがふ、と笑った。その吐息が――シキの吐息が、熱い。
シキがおもむろに顔を上げ、空いている方の手で立てかけてあった刀を取った。カチャ、と刀が音を立てる。そしてその柄がぐ、と中心に押しつけられた。
「――――い、ッ……」
熱を集めていたそこが、悲鳴を上げる。
「痛みが、欲しいんだろう?」
――与えてやる。
耳元で低く囁いて、刀にかけた力を一層強くしてくる。逃げ場のない熱が、どうしようもなく暴れる。もう、何もわからない。軋む背中の痛みも流れる血の感覚も中心の昂ぶりも。全てが快楽となって、濁流のように理性をかき消していく。その時、す、と首にやわらかな熱が這うのを感じた。首が灼けそうに熱い。
「は……、っ」
それはまもなく離れてゆき、再び血のように赤い瞳と出会った。顎を、砕けてしまうのではないかというほど凄まじい強さの力でつかまれた。見る者全てを震え上がらせる獰猛な目がかっと見開かれる。
「言え。……お前の主の名を」
「――――、それは」
シキ、と呟いた。
「俺は、貴方だけのものだッ――」
そう呻いた瞬間、後頭部に衝撃が走る。一瞬、意識が霞む。
「ぐう……っ、」
頭を叩きつけられたのだと、遅れて認識した。
「そうだ。お前は、俺のものだ。永遠にな」
それは、何よりも甘い囁き。
「俺以外の者に触れさせる権利など、お前にはない。……強くあれ。俺以外の誰よりも」
ぎりぎりと、白い指が顎を締めつけてくる。その痛みは限りなく、甘い。もっと――俺を壊せばいい。粉々になるまで。
「その身体に刻みつけてやろう。お前が、誰のものであるのか」
「はい」
そう答えたアキラの唇に刻まれたのは、いっそ美しいほどに歪んだ笑みだった。
(そうだ――)
――貴方は、俺のものだ。
永遠に。
あとがき(再録集『さいはての花園』収録作品に寄せて より)
【所有】 ……Web発表作品
『檻』と並んでED2の解釈の基礎をつくった作品です。執筆時期としてはこちらの話の方がだいぶ先行していて、この話で出てくるようなシキに対する独占欲をアキラはいかに募らせていったのか? 最初の頃はどんな関係だったのか? それがどう変化したのか? 最終的に二人はどこへ向かうのか? というところをより詰めたのが『檻』やその後の作品、そして今回の書き下ろしでした。
本編のED2のアキラはシキにずいぶんご執心で、だいぶこじらせていそうだなあと思ったのが執筆のきっかけです。相互所有の依存関係、大好きです。