さいはての花園

夜が明けるまで

「ただいま」

 玄関の鍵を開けて中に入ると、部屋の中はかろうじて物の輪郭がわかる、というほどに暗くなっていた。秋の日はつるべ落とし。まさにその言葉が示すように、最近は夕暮れが始まったと思ったらあっという間にすとんと日が沈んでゆく。

 また仕事に夢中になって電気をつけ忘れたのだろうと思いながら廊下を進んでゆくと、リビング――といってももっぱらシキの仕事場として使われている――がひっそりと静かだということに気づいた。

「シキ、……」

 そこにいるであろう彼に呼びかけた声は尻すぼみになった。

 カンバスを前にしたシキが、車椅子の上で静かに寝息をたてていた。近くに置いたサイドテーブルには、画材と空になったコーヒーカップがきちんと並んでいる。絵は見たところ未完成で、おそらくカンバスと向き合い構想を練るうちに眠ってしまったのだろう。

 刻一刻と夜の闇が迫る中、けだるげに片ひじをついて目を閉じるシキ。長いまつげが斜陽のくらい光に当てられて、ぼんやりとその輪郭を示す。

 まさに、絵画のようなワンシーンだった。

 アキラは荷物を床に置くこともせず、ただ眠るシキの姿にみとれていた。この男はなぜこんなにも美しいのだろうとおもう。

 けれどあともう少しすれば、日は完全に落ちてこの部屋は闇に包まれるだろう。そしてシキのこのうつくしい姿もその暗闇にとかされてしまう。そこに思い至った次の瞬間、アキラは気づけば首にかけていたカメラを構えていた。夢中でシャッターを切っていた。部屋の明るさが足りないことはわかっていた。それでもこのシキの姿を写し取らずにはいられなかった。ただ何かにおさめたいと、そう思って――

「……」

 ファインダーの中で、ぱちりと目が開いた。慌ててカメラをおろす。シキはぼんやりと視線をさまよわせ、アキラのほうを見た。

「帰っていたのか」

「ああ、いま」

「そうか」

 シキは先ほどまで居眠りしていたことなど嘘のようにテキパキと画材を片付け始めた。今日はもう終わりということらしい。

 アキラは今更ながらにカメラと荷物を置くと、部屋の電気をつけた。パチン、と弾かれたようにあたりが明るくなる。どこか非現実的だった光景が、一瞬で日常に変わる。アキラは手早く部屋のカーテンを閉めると、キッチンで夕食の準備にとりかかった。

 *

「メニューはなんだ」

 淡々と調理をすすめていると、シキが珍しく献立を尋ねてきた。

「今日はオムライスだ」

 端的に答えれば、シキは呆れたようにため息をつく。

「またか」

「……前回はそんなに最近じゃないだろ」

 一ヶ月は経っていないかもしれないが。

「文句言うなら食わなくていい」

「文句はない。おまえの偏食に呆れているだけだ」

「……」

 シキの分のチキンライスには唐辛子フレークを大量に入れてやろうか、という考えが一瞬頭をよぎる。いや、唐辛子よりもどろどろに溶けたあまーいチョコレートのほうが効くかも……そこまで考えて、考えるだけにしておいた。もし実行したら、半年は口をきいてくれなくなるだろう。

「はい、完成」

「なんだこれは……」

「愛のしるしだ」

 結局、シキのオムライスにはこれでもかというほど大量のハートをケチャップで描いてやった。思惑通り、シキは眉をひそめて嫌がっている様子だ。これでスッキリした。

「いただきます」

「……」

 シキは真っ先にスプーンの裏でせっかく描いたハートをぐちゃぐちゃに広げた。表面を真っ赤にしたことで気が済んだのか、そのあとは黙ってオムライスを口に運び始めた。相変わらず陰湿な男――素直ではないとも言う――だ。

 日々食事を共にしていて、思うことがある。それはシキの育ちがとてもいいということだ。食事をするシキはそれだけで様になっている。それくらい洋食器も和食器もきれいに使う。そして、絶対に食べ物を残さない。口にものを入れたまま話をしない(もともと積極的に話す男ではないが)。ひじをつかないし、箸を食器の淵に渡すことさえしなかった。厳しい教育を幼いときから受けていたのだろうか。

「シキはどこの生まれなんだ?」

 彼の出自にすこし興味が湧いて、色々複雑なのは知っていたがそう尋ねた。答えが返ってくることは期待していなかった。だが意外なことにシキは一瞬手を止め、「イギリスだ」と答えた。海外生まれだったか。妙に納得した。

「じゃああの家は、」

「しばらく住んでいた」

 シキは例の洋館の絵を見ながら言い出したアキラの言葉をさえぎるように答えた。

「薔薇の庭園は立派だった。それだけだがな」

 シキはそれ以上答えるつもりがないのか、絵を一瞥もせずに再び口と手を動かし始めた。

 小さな額に収められた、美しい薔薇の園に囲まれた大きくて立派な洋館。たいそうな家の出身であることは間違いない。

 彼が過去に美しい家族の思い出を持っているわけではないことは十分にわかっていた。だがあの絵を今もリビングの一番目立つところに飾っているところを見る限り、愛着がないわけではないのだと思うと妙な気持ちになる。

 アキラにはそのように特別な場所はどこにもなかったからだ。記憶に留めたい、思い出したい、残したい。そんな家はどこにもないし、思い出もなかった。傷ある形であるにせよ、愛着というものを持っていることが素直にうらやましいと思った。

 *

「おやすみ」

 シキが先に横になっているベッドに、アキラももぐりこむ。アキラがこの家に半ば押しかけてきたときから、ベッドはひとつしかない。もともとひとり用としては大きめだったので、二人はゆうに眠れる。だから困らない……そんな理屈は、ただの言い訳にすぎなかったかもしれない。

「……、」

 明かりを落としたあとのベッドルームに、かすかな水音が響く。どちらからともなくはじまった、啄むようなキスの音。

 アキラがねだるように首筋に唇を当てて強く吸うと、シキは襟元から手を差し入れてきた。細い指が鎖骨をくすぐるようになぞる。そしてもう片方の手が、夜着のボタンを順番に外していく。あっという間に素肌があらわになった。

「は……」

 アキラのわずかに開いた口から漏れる吐息が、隠せぬ劣情をあらわにする。それすらすくい取ろうとするかのように、深く口づけられた。

「ん、ぅ」

 舌と舌が絡み合って、思考がとけていく。下半身に溜まり始めた熱を感じながら、シキの夜着も脱がしていく。まもなくあらわになった胸どうしを重ね合わせれば、鼓動の音が響く。あたたかい体温を伝え合う肌に安堵を覚える。

 不意にシキが身体を離し、アキラの胸の突起をピン、と弾いた。

「ッ」

 突然の刺激に、目眩がするほどの快感が走る。

「すっかり感じるようになったな」

 そう耳元でささやきながら、同じところをこねるようになでまわす。あっという間にそこはかたくしこり、次の刺激を待ちわびるようになった。

「う、うるさ……」

 抗議の言葉は、彼に与えられた快感と共に流れ去った。彼は舌先を使い、アキラの敏感になった場所を執拗になめた。

「や、め……」

 性器でもないところにこんなに強い快感を感じている自分が恥ずかしかった。勝手に声がうわずって、びくりと身体が震えて。小さな粒のような場所に、すべての神経が集まったようになって。それでもどうしようもないくらい、きもちよくて。

「ん……ぁ」

 シキの頭を押しのけて快感から逃れようとするのに、それはぴくりとも動かなかった。そればかりか、一層愛撫を強く繰り返された。

 かり、と歯が立てられた瞬間、何かが弾ける。

「っ……!」

 無言で息を詰まらせ、どっと脱力感が訪れる。――また、やってしまった。

「ここで飛ぶのが癖になったか」

 シキが顔を上げて、アキラを真っ直ぐに見て問うた。アキラをいつも翻弄し、溺れさせる赤い瞳。どうしてもたえられず目を逸らすと、顎をつかまれ向き直らされた。

「淫乱なやつだ」

 シキはそう言って、しとどに濡れたアキラのズボンに手をかけた。今し方精を放ったばかりの性器が、はやくもシキの手を押しかえそうとしている。

 まったく、どうしてこんなふうになってしまったのか。元々性欲は強くなかったはずなのに、シキと夜を共にするようになってから何もかもが変わってしまった。自分の知らない快感を与えられ、からだは作り替えられ、もう彼なしではいられない、というほど欲深くなってしまった。――ぜんぶシキのせいだ。

 アキラは濡れたズボンと下着を一気に脱ぎ捨てると、シキを仰向けにしてその上に覆い被さった。腹に残った白濁を指ですくい取り、後ろにあてて塗りつけた。直視してくるシキの視線に羞恥心を強く刺激され、思わず目を閉じた。これでどうせ自分は見えないのだからと、思い切って余っているほうの手を前に絡める。

 からだが欲するがままに、前を擦り、後ろをほぐした。前に与える単純な往復運動が男の本能を呼び覚まし、そこが硬くなるごとに理性はとかされた。

 前と後ろで同時に自慰をする姿を下から見上げられていると思うと、恥ずかしいどころの騒ぎではなかった。けれど全てをかなぐり捨てて快感に溺れなければもっとやっていられなかった。

「あっ、あ……ア」

 さきほど出きらなかった精液がこぼれて落ちたことも、後ろが花開いて淫猥な音を立て始めたことも、努めて意識しないようにした。目の前にある快楽だけを追い求めていく。

「シキ、あっ、は……ぁ」

 シキの巨大な熱がそこを犯しているかのように、ゆるく腰を振った。それが自分の中に埋め込まれている様をはっきりと想像した瞬間、中が引き絞られる。

「あ、あ……」

「アキラ」

 行き場のない熱を持て余して喘いでいると、シキの呼び声が聞こえた。瞼を持ち上げれば、ぽろりと涙が伝い落ちた。

 

 ああ、シキの瞳はいつだって、たとえ闇の中であっても、こんなにもうつくしい。

 

 彼にならなんだって捧げられる。彼がアキラを食いたいと欲するなら、何度だってこの貪欲な身体を開こう。

 アキラは指を引き抜きもう片方の手も解放すると、シキの頬を手のひらで包んだ。なるべく彼を汚さないようにしながら、きれいな肌を撫でた。

「シキ……」

 触れるだけのキスをしたつもりが、いつのまにか濃厚になっていく。屹立した彼自身にゆるめた孔をあてがえば、彼はその中にもぐりこもうと腰を揺らした。

 求めに応じるように、口づけたままゆっくりと腰をおろした。ぐ、と押し広げられる強烈な感覚がじわりとにじむような快楽を全身に響かせた。

「ん、……」

 全てを収めて力を抜くと、つながっているという実感が湧いてくる。いる――自分の中に、シキが。

 唇を離し、理性が焼き切れてしまったかのように腰を揺らした。シキはしばらく動かないまま小さくうめいていたが、不意にタイミングを合わせてぐっ、と自身を深く押し込んできた。

「ああっ……!」

 電流にあてられたかのように身体がしなる。次いで、ある一点を攻められて意識が飛びかける。

「シキ、ん、あ……、そこ……!」

「くっ――」

 収縮する中に刺激を与えられてか、シキが息を詰まらせた。何度もこすりつけては締め付けて、彼の中の獣を煽った。

「そこっ……そこが、もっと……!」

 シキはアキラに応えるように、繰り返しその場所を突いた。勢いよく擦れる度に激しい水音がたち、ふたりの荒い息が部屋に響いた。

「シ、キっ……!」

「っ……」

 すぐそこに果てを見つけて、無我夢中で手を伸ばした。最奥に叩きつけられた熱が欲を吐き出す。アキラの先端から、白濁が飛び散る。

「……」

 腹が汚れるのもいとわず、アキラはシキの上に倒れ込んだ。もうなにもわからない。なにも……ただ最後に感じたのは、汗で濡れた髪を撫ぜる指の感覚だけだった。

 *

「……」

 アキラは突然覚醒し、ばっと飛び起きた。どれくらいの時間が経ったのか、感覚がない。

「どうした」

「あ……」

 横を見ると、シキが上半身を起こして身体を拭っているところだった。アキラがいつも気絶してしまうので、枕元の棚にウエットティッシュを常備しているのだった。アキラの身体はすでに清潔になっていて、シキが先に清めてくれたのだと気づいた。

「ありがとう」

「拭いただけだ。シャワーでも浴びてこい」

「アンタは?」

「面倒だからいい」

 足が悪いシキは、わざわざシャワーに行くのが億劫なようだった。

「背中拭いてやるよ」

 そう申し出ると、シキはだまってウエットティッシュの筒を寄越した。最初こそこういう気遣いをうっとうしがっていたが、近頃は割と素直だ。アキラはティッシュを取り出し、シキの広い背中の上で丁寧に手を動かした。

 シキは何も言わなかった。だが、頑固な彼がこうして無防備な背中をさらしてくれるということは信頼の証のような気がしたし、純粋に嬉しかった。

「終わった」

「ああ」

 シキはアキラから受け取ったゴミをベッドの脇のゴミ箱に入れると、すぐに布団の中に潜った。

 アキラも彼の横に並んで、なんとなく裸の身を寄せ合った。ほんのりとあたたかい、情事のあとのからだ。そのやさしい温度となめらかな肌の感触が、アキラを心地よい眠りへと誘う。

 向こうを向いたままのシキの背中に額を当ててこすりつけても、彼は嫌がらなかった。いつもそうだ。情事のあとだけ、シキは決してアキラのすることを拒絶しないし、いつも息をするように放っている嫌みも言わなくなるのだ――朝が来るまでは。

 子を為すわけでもない自分たちが身体を重ねる意味があるとしたら、きっとこんな時間を共有するためなのではないか、と思う。互いがありのままの姿になって、心地よくまどろんで、共に眠って。夜が明けるまでの、短くて、でも何よりも大切でやさしい時間。

「シキ」

「なんだ」

 もう寝ているのかと思って呼びかけると、はっきりした応答が返ってきた。その声を聞いて、なぜか急に恥ずかしくなった。

「……なんでもない」

 うまい言葉のつむぎかたなんて知らない。愛のありかなんてわからない。けれどこれだけは思う。

 

 いま、このときがしあわせだと。

 

 アキラはシキの温度を感じながら、静かに眠りに落ちていった。 

 

 *

 

「ただいま」

 翌日、アキラは早めに仕事を切り上げて帰宅した。片手に大きなビニール袋を提げて。

「なんだ、それは」

 たまたまコーヒーを飲んで休憩していたシキがすぐさま見慣れない袋の正体を尋ねてきた。

「これか? これは家庭菜園セットだ」

「家庭菜園だと?」

「そう。シキの実家のようにはいかなくても、緑があったほうがいいだろ」

 そう説明し、アキラは野菜や花の種をテーブルの上に並べて説明した。

「世話はすべておまえがやるんだろうな」

 まるでペットを拾ってきた子供に説教をする親のように、シキは呆れた顔で確認した。

「もちろん。ちゃんと水やりも収穫もするし……ベランダのところで育てていいだろ?」

「フン。勝手にしろ」

 そう言って、シキはもう興味はないと言ったように新聞を読み始めた。

  

 アキラはさっそく玄関前のスペースに腰掛け、家庭菜園の入門セットを広げ始めた。まずはカブを植えてみよう。裏の説明によれば、今植えれば冬になる前に収穫できるようだ。無事に収穫できたら味噌汁に入れて美味しく食べよう、などと考えながら作業を進めていく。

 ――帰ってきたい、大切にしたい。

 この家をシキにとって、アキラにとって、少しでもそんな場所にできたら……と思ってのことだった。シキは勝手にしろとは言うけれど、いつか一緒にできたら楽しいと思う。彼は器用だし、意外に気のつく男だから。

 アキラは小さな種を土のくぼみにきっちり埋めていくシキや毎日丁寧に水やりをするシキを想像しながらこっそりと笑みを浮かべた。

 

 

 その後シキが「あいつらに水はやったのか」「肥料は足りてるのか」などとやたら気にかけ始めたのは、カブの種が芽吹いてから三日後のことだった。

あとがき(再録集『さいはての花園』収録作品に寄せて より)

【夜が明けるまで】 ……二○一七年十月 イベント無料配布

『夜空と銀の煌めきと』の発行当時におつけした無配でした。紺の「新星物語」という紙に黒と黄色の二色刷りという、史上最高クオリティの自家製コピー本に仕上がったと思います(自画自賛)。ちなみに『子守唄』の表紙も同じ紙です。この紙は表二、三に印刷がなくても華やかに仕上がるのでオススメです!

さて、中身はというと甘々新婚えっち(?)みたいな話になりました。一瞬で書き上がったということ以外覚えてません。やっぱり甘々の方が得意なんだと思います。そして植物、というか生き物と向き合うシキって本当に萌えだと思います。

本が全年齢で無配が十八禁ということから、書店やBOOTHではお届けできなかった方も多いので、この機会に楽しんでいただれば幸いです。