相手のすねに向かって足を出す、と見せかけて頬めがけて拳を繰り出した。反応が遅れた大男が殴打をまともに受けて顔をゆがめる様がスローモーションで見えた気がした。追い打ちをかけるように左からもパンチをたたき込む。ぐ、っと関節が厚い皮膚に食い込んでいく、その瞬間。
頭が、体が、熱くなる。
男が地面に倒れる。降参のポーズ。わっとあがる歓声。――急激に冷めていく、思考。
「勝者は、LOST! 無敗記録を更新したーッ!」
レフリー役の青年は、紫の髪をぶんぶんと振り回しながら雄叫びをあげた。
LOST! LOST!
周囲の熱を帯びたコールとは裏腹に、アキラの体はもうとっくに冷めきっていた。
駆け寄ってきてアキラの体を勝手に担ぎ上げようとしてくる野次馬を手を挙げて制し、無言のまま輪を抜ける。少し離れたところで、馴染みの顔がやってきた。ケイスケだ。
「アキラ、おつかれ。おめでとう」
「別に」
それが、試合が終わって初めて発した声だった。――別に。それがアキラの心の中の全てを表していた。
勝ったからって、無敗記録を更新したからって、賞賛の声を浴びたからって、だからなんなのか。その先に何かがあるわけじゃない。こんな行き場のない不良たちのたまり場で憂さ晴らしとして行なわれるストリートファイトの王者が、特別な何かを得るわけでも、何かに「なれる」わけでもない。それでもアキラはこの場所に来る。拳を振るう。なぜか離れることができなかった。こんなところで何をしているんだろう、と思っても、気づけば足は路地裏に向いている。
――懐かしい?
そんな気もした。
――何かを待っている?
そうかもしれない。
ただひとつ言えるのは、いまのアキラにはここしかなくて、この先の自分のことなんて何もわからない、ということ。やりたいことなんてない。望む未来なんてない。死ぬ理由もないから生きているだけだ。
「アキラは、高校卒業したらどうするの?」
思考に沈んでいると、ずっと隣を歩いてきていたケイスケが不意に問うてきた。
「?」
少しぼんやりしすぎていたようだ。ケイスケが不安そうにアキラの顔を覗き込む。
「大丈夫? 調子悪い?」
「いや、大丈夫だ。それで?」
「あ、うん。アキラは、高校出たらどんな仕事するつもりなのかなって」
「仕事……」
そんなもの考えたこともない。今は他界した両親の代わりに、親戚に最低限のお金はもらっている。しかし進学を考えていない以上は、高校を出たらそうもいかない。生きるためには、金がないとやっていけない。そう考えると面倒だった。
「俺、工場で働こうと思ってるんだ」
「工場?」
「うん、ほら、高校の裏にある……」
「ああ」
「工場で働く人って、あこがれなんだよね」
ケイスケは照れたような顔で続けた。
「ひとつひとつの仕事を、きっちりこなす。世の中の見えないところに役に立ってる。俺はそういう仕事がしたいなって」
「へえ」
すごく立派だと思う。自分とは大違いだ。素直にそう思った。
「それで……その、さ」
ケイスケはそこでしばらくためらうように足下に視線を向けた。
「なんだよ」
促すと、彼はようやく口を開いた。
「アキラもやりたいことがないなら……一緒に働かない?」
「工場で?」
「そう」
工場で働く。ケイスケと一緒に。ひとつひとつの仕事を、きっちり――できるだろうか。こんな足下がおぼつかない自分に。
「考えておく」
「う、うん。……ありがとう」
だが、他にどんな仕事ならできるのかもわからない。やってみて合わなければまた変えればいいかとも思う。
「アキラとさ、高校出ても……一緒にいたいから」
途端に小さな声になって、ケイスケが呟いた。
「別に仕事が違っても、会えるだろ」
「うん、そ、そうだけど……せっかくならさ」
「……」
沈黙が流れる中、分かれ道にさしかかった。ケイスケは右。アキラは真っ直ぐだ。
「それじゃ、また明日」
「ああ」
別れを告げると、アキラは再び歩き出した。日が落ちかけた路地は、薄暗く赤く染まっている。ストリートファイトの刹那的な熱が少しだけよみがえった気がした。
自分はそんなに価値のある人間だろうか。ケイスケが一緒にいたいと思うような。……いや、そんなに立派な人間じゃない。ただ少しだけ、喧嘩が強いというだけで。小さい頃からいじめられっ子だったケイスケの中では、過剰に偶像化されているのかもしれないが。働いたら、少しはまともな人間になれるのだろうか。
アキラは真っ赤な夕焼けを見上げながら、それもどうでもいいことか、と思うのだった。