さいはての花園

夜空と銀の煌めきと

02 コンビニ

「ねえ、アキラ。コンビニ寄ってもいい?」

「ああ」

「遅くなったからスーパーも開いてないし、今日はコンビニ飯でいいかなあ」

「ああ」

 アキラとケイスケはぼんやりと光る外灯の明かりだけを頼りに、車も人もいないような寂しい通りを家に向かって歩いていた。湿気が全身にまとわりついてうっとうしいのに加えて、こんな時間にもかかわらず昼夜の境を忘れてしまった蝉たちが執念深く鳴き続けていてうるさかった。

 ここ最近工場の設備の調子が悪く、こんな風に夜遅くまで残業になることがしばしばあった。疲れ果てたあとに食事を作るのも骨が折れるため、残り物がない日はコンビニに寄ることが多かった。

「よかった。今日も開いてる」

「一応コンビニだからな……」

 二人が一緒に住んでいるマンションの近くには、一風変わったコンビニがある。店員が全員猫の耳としっぽを持っていて(どうやら本物らしいという噂が地元では流れている)、雰囲気はたいていおおらかで、悪く言えばいい加減だ。しかし食べ物の質は高いので、アキラたちのように猫耳を気にしない人は結構利用しているようだ。

「グリーンカレーまんあるかなあ」

「おまえはいつもそれだな」

「アキラだって、いつもオムライスまんじゃないか」

「あれが一番まともな味がするってだけだ」

 別に、オムライスが特別好きなわけじゃない。

 食べ物のことを考えていたら、腹が本格的に空いてきた。さっさと買って帰ろう。二人が入り口のドアを開けて入ると、ひんやりとした空気に包まれた。暑さでバテていた体が生き返るようだ。しかし店内がなにやら騒がしい様子だった。また店長と店員がもめているようだ。レジの前でむすっとした表情をしている男はコンビニの店長に似合わずいかつい眼帯をつけている上に相当気が強いようで、よく鋭い眼光を放っているところを見る。

「だから、そういうところが……」

「フン、馬鹿猫に言われる筋合いはないな」

「な……!」

「す、すみませーん……」

 ケイスケが恐る恐るレジの店員に声をかけると、「コノエ」と書かれた名札を着けた青年がぱっと顔をこちらに向けた。

「あ、はい! いらっしゃいませ!」

「グリーンカレーまんとオムライスまんが欲しいんですが」

「あ、あー……すいません。それがちょっといま、うちの店長がだめにしちゃったところで……新しいものを作るので少しお時間いただいてもいいですか?」

 なるほどそれでもめているのか、と合点がいった。ここの店はよく品物をだめにしている。それだけでなく、とにかくいろいろと気ままなので経営が本当に成り立っているのか心配なくらいだ。

「大丈夫ですよ……っと、アキラはいい?」

「ああ。そんなにかからないだろ」

「ええ、五、六分で用意しますので!」

 店員はぺこりと頭を下げた後、「ライ、まずはお客さんの分作り直すからおとなしくしてろよ」と釘を刺してから厨房スペースへと入っていった。

「ふん」

 店長は――と言っても今はこちらのほうが店員のように見えるが――気に入らない様子ではあったが、客である二人の方をちらりと見てから背中を向けて店の奥へと立ち去った。店長が無愛想なのは最初からだ。気にしていない。

 アキラは惣菜コーナーなどをぐるっと見たあと、特別なものは何もなかったので外で待つことにした。ポツポツと星が光る空を見上げながらぼうっとしていると、どこからかバイクの音が近づいてきた。こんな片田舎には不似合いな派手な音。やがて姿を見せたそのバイクは、音以上に仰々しい見た目だった。

「なんだ、あれは……」

 人一人が乗るにはあまりにも大きなバイクだ。なんのためにあんなに大きいのかわからない。あれでは普通の人間なら押して歩くのが精一杯だろう。そして色調こそ落ち着いてはいるが目立つパーツが複雑に組み合わさった外観は、乗り物というよりは一種の芸術品のようでもあった。

 バイクはフォンフォンフォン……と変わったエンジン音をしばらく響かせた後、沈黙した。またがっていた黒づくめの男がヘルメットを外す。あらわになったのは、見とれるほどにつややかな黒髪で――

「!」

 男がこちらに目を向け、視線が交わった。――赤い。暗い中でもわかる、真っ赤な瞳。

 その瞬間、心臓を掴み上げられたような悪寒が全身を駆け巡る。逃げろ。早く、立ち去れ。本能が警告を発している。それほどに鋭い視線だった。しかし目を逸らすことができない。金縛りにあったように。

 

「――アキラ」

 

「な……」

 ぎゅう、と全身が絞られたぞうきんのように軋む。男が発した言葉は、確かに自分の名前だった。

「何故、俺の名前を……」

 考えるより先に、疑問が口をついて出た。アキラはこの男を知らない。会ったことがあるはずがない。一度でも会ったことがあるのなら、この目を忘れられるはずがない。

「そんな気がした」

 男は視線を外さぬまま、そう答えた。

(そんな気がした、だって……?)

 不自然な答えに眉をひそめると、男は唇の端をわずかにつり上げた。笑って、いるのか。

 今度こそ全身の毛が逆立っているような感覚を覚えた。今までどんな人間と対峙した時も感じなかった、これは。

 

「アキラー、できたって!」

 

 鉛のように重い沈黙を破ったのは、入り口から出てきたケイスケの声だった。アキラは反射的に視線をそちらに向けた。

「できたてだから熱々だよ! 早く帰って食べよう」

「あ、ああ……」

 嬉しそうなケイスケに導かれるように、コンビニの駐車場を突っ切って敷地の外へと足を運ぶ。去り際に振り向くと、そこにはバイクだけが残りあの男の姿はなかった。そしてそれと同時に、あんなに感じていた悪寒もすっかりなくなっていたことに気づいた。

 *

「ただいま」

「……」

 上の空で靴を脱ぎ、小さな机を挟んでケイスケと二人もそもそとできたてのグリーンカレーまんとオムライスまんを食べた。ケイスケが色々と話していたような気もするが、内容はすべて耳の穴を通りすぎていった。

 寝支度をして暗がりの中で薄い布団に横になると、今日の一瞬の出来事が鮮やかに思い出された。

 名前を呼ばれた瞬間、時が止まったようだった。

 なぜ名前を知っているのか――というのは後から浮かんできた疑問であって、あの瞬間にアキラを支配していたのは、もっと心の奥底を揺さぶるような激情だった。しかしそれを一体何と呼べば良いのかはさっぱりわからない。怒り? 反発? ……それとも、恐怖だろうか。いや。どれも適切な言葉ではない気がした。考えるほどにわからなくなり、ともすれば慈しみだったのかもしれない、とさえ思えてきた。とにかくいろんな感情がない交ぜになって形をなくしていた。そんな行き場のないもやもやが、再び疑問になって飛び出してきた。

(なぜあいつは俺の名前を知っている?)

 ――わからない。わかるはずがない。

 そのうち思考に疲れてきて、アキラはまどろみのなかへと落ちていった。